マイストーリー

幼少期

4人妹弟の長女として生まれ、母からピアノの手ほどきを受けます。
常に育児と家事に追われていた母のレッスンでは親子バトルもしばしばでしたが、ピアノの練習をすると宝物が増えるよ〜!と言われて練習した記憶があります。
ただ、ピアノ部屋は離れにあり、家族から一人離れるこのアクションは当時の私には負担でした。
でも音楽は好きで、様々なジャンルのレコードをかけては妹や弟とはしゃいで踊って針を飛ばしたり、スピーカー内のレンズを静かに覗いて演奏者を想像して聴いていました。

音楽教室と音大入試

小学4年生で桐朋学園大学附属「子供のための音楽教室」仙川教室に入室。
私も含め遠方から通う子も多かったですが、真剣ながらも笑顔の絶えない大人数の合唱と、自作曲を交換し合ったりレッスン後のお喋りも楽しいソルフェージュクラスは、一人で通う往復4時間の移動も全く苦になりませんでした。
一方で、ピアノの個人レッスンは厳しいものでした。音やリズム、指使い、アーティキュレーションの正確さが求められ、ミスをすると練習不足を指摘され、時に母宛の叱責の手紙を持たされて帰る始末。
中学生になり、実技試験前には音大教授のレッスンも受けるようになりましたが、顔つきから厳しい先生を前に弾きたい気持ちが伴わず、音高受験の選択肢は消え、中学3年生になるタイミングで音楽教室も退室しました。
それでも将来は音大に行きたいと漠然と思っており、そのまま個人レッスンには通い続けます。高校時代はレッスンの課題でない曲集を順番に弾くことでストレスを発散させていました。
進路について改めて考え、初めて受けたオーディションで奨励賞を頂けたのも励みとなり、東京音楽大学ピアノ科に入学しました。

大学生活

新しい風を感じながら意気揚々とスタートした大学生活。
しかし!ピアノの打鍵を徹底的に直され、基礎とは何ぞやの地道なレッスンが始まります。最初の一音から「違う!」と止められ、8小節しか進まない日もありました。
当時のキャンパスは池袋にありコンサートホールへの便も良く、様々なコンサートが学生料金で聴けました。
学内ではピアノ科の授業や招聘教授による公開レッスンはもちろん、管弦打楽器科や指揮科の特別授業も聴講でき、時に試験も受けて個別に解説も頂ける学びのパラダイスでした。
4年生の時、母校の中学校で教育実習がありました。私にとって初めての教える経験です。
研究授業では、クラシック音楽も含めた世界の音楽は全て民族音楽であるという視点に立ち、様々な音楽の存在を知り、時代・国・地域・宗教・伝統・美意識の違いによって固有の表現があることを知り、文化の交流や影響により共通性もあることを実感できるようにしました。「教材研究は一生の課題。生徒は時代と共に変化し、教材も時代と共に変わる。教師自身がそれに伴って変われないなら、その時が辞める時。」と言われた指導教諭と、この2週間の生徒達との交流は今でも忘れません。
卒業後の進路には不安はありながらも毎日楽しい大学生活、様々な分野の先生に積極的に話しかけにいきました。
音楽産業では、山手線を一周したり他の電車にも乗り、駅の発着の音楽やスピーカーの種類と音質を調べたり、環境音楽では、生活空間での音響条件の劣化問題と共に生活者自身が美しい音への感性を養う方法を、音楽療法にもつながる音具を使って体験したりしました。
12月は実技卒業試験を終え、NHK紅白歌合戦に五木ひろし氏のバックコーラスで参加。
そして新年を迎えて間もない頃、昭和音楽大学で伴奏研究員の募集があることを知ります。
「やっぱりピアノが弾きたい!」と、2週間でグラズノフのサクソフォンコンチェルトとバッハのフルートソナタを準備し、試験に合格。器楽の伴奏研究員に就任しました。

8年務めた伴奏研究員

昭和音楽大学は自宅から片道3時間掛かりましたが、ソロやオーケストラの首席で活躍される先生方のレッスンは非常に学びの多いものでした。
ピアノ科とは違うレッスン棟の空気感もあり、まるで楽器の特性が人間性を作っているかのようでした。
8年間にわたり伴奏を担当させて頂いたフルートの教授のご自宅はまるで古楽器の博物館で、そんな時空を旅する時間もあれば、年2回の実技試験シーズンには毎回30人近い学生の譜読みと合わせ、レッスンの付き添いに忙殺され、家には寝に帰る生活。試験期間は大学最寄り駅のホテルに泊まることもしばしばでした。
研究員3年目の夏、試験での伴奏を全て終え久し振りに自宅へ帰ると、母が腹痛を訴えるので一緒に病院へ。末期のすい臓がんでした。私自身のピアノのコンクールの予選を3週間後に控えつつもそれどころではない事態。しかし母には病名を伏せていたため、コンクールは予定通り受けることに。予選通過の報告は出来たものの、入院から僅か1ヶ月で他界。奇妙なことに本選とお通夜の日が同日となりました。

現在

母の死から、目の前の大切な人の変化を察知し、守れる強さを持ちたいと思うようになり、伴奏研究員を任期まで務めたのち、2〜3年毎に全国転勤のある夫と結婚し子育てに専念する生活に入りました。2人の子供のPTA委員や子供会、習い事の役員やボランティア等に関わり、我が子や身近な子供達の心身の健康と笑顔を守りたいとの思いでできることをしてきました。
やがて我が子にかかる時間から少しずつ解放されると共に音楽のスキルを活かしたいと、アーデン音楽館に勤め始めます。レッスンでは幅広い年代の様々なニーズがあり、この四半世紀、特にコロナ禍を経て激変した社会通念には、ピアノ指導者に何を求めるかを考えさせられました。
私がこれまでに音楽で学んできたこと、それは今の時代とこれからを生きる面白さや豊かさにつながります。生徒さん達が元気に平和な社会をつくっていけるよう、ピアノ教室を通して見守り続けることができたら幸甚です。